2011年7月27日水曜日

わのくに日本「紀」の国の調査の現状


わのくにの始まりと予想できる地域の一つ、きのくにでは、どのように古代の研究がなされているのか。20117月24日に和歌山市の南東にある「紀伊風土記の丘」という展示施設に出かけてみた。

和歌山インター近くにある岩橋千塚古墳群(いわせ)と呼ばれる特別史跡のところに、その散策体験型のミュージアムはある。以前より、近隣の子どもの遠足や中高年のハイキングの名所であると聞いていたが、でかけるのは初めてであった。

昭和40年代に全国で風土記と名づけられた事業が10箇所あったらしく、そのミュージアムの命名には、実際の風土記の出土記録や、記述内容とは無関係であるという。しかし、紀州には、日本書紀以降に万葉仮名にて多くの文書や和歌が書かれた歴史があり、地域史を編纂するよう命じられた本物の「風土記」が実際にあり、その断片が存在するのも事実である。

展示室は、小さな部屋が3つに、所狭しと土器などの破片が展示され、模型も多いが、似たような遺跡が集まった古墳群ということもあり、子ども達の目を引くような大型動物の化石がある他府県の発掘展示施設に比べると、迫力に欠ける。
事情を聞くと、和歌山県で各地で発掘される土器等のほとんどが、地元の市町村の所有物であり、県で預かっているのは、高速道路の開発に伴う発掘の品ぐらい、発掘されたもの同士の検証は、あまり進んでいないようであった。

奈良県では、古墳時代が予想よりさかのぼると言われ、3世紀ごろのものも出土しているが、和歌山ではどうかと思い、質問したところ、京都奈良ですでに年代の特定されているものを基準に、年代推定をしている。それは、「年代の分かる」日本書紀に頼っているという。よって、日本書紀に登場する文献に由来する出土品は、いつまでたってもそのままの年代とされており、予想より遡るのは、それよりも古い出土品に限るという。
ちなみに、昭和40年代に発掘されたものは、一度も再調査されていないそうだ。

奈良で正しい発掘が進めば、時間が解決するだろう。
しかし、奈良は標高が高いが、低地の和歌山は、温暖化が今後進めば、何十年後、何百年後には、そのうち海底探査をしなければ遺跡調査ができなくなることであろう。そして、奈良よりも和歌山の遺跡が本当に古いのであれば、本格的再調査はかなり先になりそうである。残念である。
温暖化で水没しないうちに、ぼちぼちと古い遺跡の再調査が進み、「日本史」がもっと古いことがわかればなお、面白いなと思う。

和歌山県には、大陸とつながっていた氷河期の遺跡もあり、かなり古くから現生人類がすんでいたはずである。縄文時代の遺跡、ナウマン象を追いかけてきた狩猟民族の集落もあるはず。恐竜の化石のように、県が一括管理するには、あまりにたくさんの遺跡がありすぎるのである。東北で縄文時代の実情の多くが解明されたように、和歌山で、大和朝廷以前の和文化が解明されれば、イタリアやギリシャのような観光地になるのではと、ひそかに期待している。

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