2011年7月27日水曜日

わのくに日本「紀」の国の調査の現状


わのくにの始まりと予想できる地域の一つ、きのくにでは、どのように古代の研究がなされているのか。20117月24日に和歌山市の南東にある「紀伊風土記の丘」という展示施設に出かけてみた。

和歌山インター近くにある岩橋千塚古墳群(いわせ)と呼ばれる特別史跡のところに、その散策体験型のミュージアムはある。以前より、近隣の子どもの遠足や中高年のハイキングの名所であると聞いていたが、でかけるのは初めてであった。

昭和40年代に全国で風土記と名づけられた事業が10箇所あったらしく、そのミュージアムの命名には、実際の風土記の出土記録や、記述内容とは無関係であるという。しかし、紀州には、日本書紀以降に万葉仮名にて多くの文書や和歌が書かれた歴史があり、地域史を編纂するよう命じられた本物の「風土記」が実際にあり、その断片が存在するのも事実である。

展示室は、小さな部屋が3つに、所狭しと土器などの破片が展示され、模型も多いが、似たような遺跡が集まった古墳群ということもあり、子ども達の目を引くような大型動物の化石がある他府県の発掘展示施設に比べると、迫力に欠ける。
事情を聞くと、和歌山県で各地で発掘される土器等のほとんどが、地元の市町村の所有物であり、県で預かっているのは、高速道路の開発に伴う発掘の品ぐらい、発掘されたもの同士の検証は、あまり進んでいないようであった。

奈良県では、古墳時代が予想よりさかのぼると言われ、3世紀ごろのものも出土しているが、和歌山ではどうかと思い、質問したところ、京都奈良ですでに年代の特定されているものを基準に、年代推定をしている。それは、「年代の分かる」日本書紀に頼っているという。よって、日本書紀に登場する文献に由来する出土品は、いつまでたってもそのままの年代とされており、予想より遡るのは、それよりも古い出土品に限るという。
ちなみに、昭和40年代に発掘されたものは、一度も再調査されていないそうだ。

奈良で正しい発掘が進めば、時間が解決するだろう。
しかし、奈良は標高が高いが、低地の和歌山は、温暖化が今後進めば、何十年後、何百年後には、そのうち海底探査をしなければ遺跡調査ができなくなることであろう。そして、奈良よりも和歌山の遺跡が本当に古いのであれば、本格的再調査はかなり先になりそうである。残念である。
温暖化で水没しないうちに、ぼちぼちと古い遺跡の再調査が進み、「日本史」がもっと古いことがわかればなお、面白いなと思う。

和歌山県には、大陸とつながっていた氷河期の遺跡もあり、かなり古くから現生人類がすんでいたはずである。縄文時代の遺跡、ナウマン象を追いかけてきた狩猟民族の集落もあるはず。恐竜の化石のように、県が一括管理するには、あまりにたくさんの遺跡がありすぎるのである。東北で縄文時代の実情の多くが解明されたように、和歌山で、大和朝廷以前の和文化が解明されれば、イタリアやギリシャのような観光地になるのではと、ひそかに期待している。

わのくに和服の始まり


世界中の多くの民族風習に共通しているのは、服と共に頭に布を巻いており、頭や首に布を巻くのが正装であるという点である。キリスト教の尼僧とイスラムのベール、おこそ頭巾に共通するものを感じる人もあるだろう。手ぬぐいで農民や庶民が頭を覆って仕事をする風景も、東西で見られる。炎天下、土ぼこりの中で、毎日風呂に入れず洗髪できないとあれば、頭部が汚れないように覆っていたと思われる。

極初期の人類の衣装、貫頭衣。
ビニール袋に穴を開けてかぶったような単純な構造ときくが、巾着のひものように首や袖にざっくり縫って、首や袂を絞ってきていたのだろう。

その後、織り機の発展と共に、中国や朝鮮半島、インドやペルシャのような、ひだスカート、巻きスカートの服装が入ってきたのであろう。また、乗馬と共に、乾燥地帯の民族衣装、袴状のズボンが入ってきたのであろう。
偶然かもしれないが「猿股」に似た語感のサルマティア人の服や呉服、モンゴル人の服、オランダ人のニッカボッカ服なども、折々に取り入れられてきたのではないか。

十二単の頃も、庶民はまだ弥生時代に近い服装であったかもしれない。そして、貴族も盛夏の御簾の中では、裸に薄い布を巻きつけてごろごろしていたことだろう。縁側で井戸で冷やしたメロンの一種、マクワウリをみなでかじって、扇子で扇ぎながら涼んでいたかもしれない。

どのくにも、どの民族の文化も、多くの国の影響を受けて成長繁栄してきている。日本の文化も、時代ごとの多くの文化の影響を受けてきている。今見ている日本の風景は、ほとんどが持ち込まれたものである。桃も、桜も、イヌもネコも、人間と共に日本列島にやってきた。和文化のルーツは多様であり、答えは一つではない。宗教は宗教のルーツ、政治は政治のルーツがある。民族的な遺伝的ルーツ、食文化のルーツも多様である。
日本列島には、多くの外国人が難破しては漂流し、漂着してきたはずである。
どのような材料とレシピで順々に形成されたのか、製造方法を解明するという方向では、和文化を解明できないか。
漬物のように、つぎつぎと新しい野菜が漬け込まれて発酵してきた文化ではなかろうか。

わのくに日本「まつり」の始まり

だし、山車、山鉾。船に槍やなぎなたを積んで街頭を練り歩くというのは、現在で言う軍事パレードであったのか。
だし舞い。だんじりの舞?しし舞い?
パレードが主で、上部の飾り物は、当時の流行のものなら何でもよかったのだろうか。
船や太鼓、いろいろなものを仮装しながら担いで歩くのが、純粋に楽しかったのだろうか。

めずらしい、ライオンや龍を模して歩いたり、中国や世界各地で行われていた出し物を、
日本でもだしたのが、「だし」なのか。
絵に龍やライオンや象を描いても、なかなかその大きさや迫力が伝わらなかったとき、彼らは、ライオンや龍の面をつくって、実際に動きを演じて見せたのではないか。
現代で言う、テレビのような娯楽教養ものではないか。

旅行の大義名分に、寺や神社に参ってくるといって、寄付を集めて出て行ったのか。そして、他国のおもしろい風俗を持ち帰っては、祭りで演じて見せたのか。

難しい漢文の書物を、わかりやすく庶民に語って聞かせる人がいて、それが演劇や映画、現在のテレビなどへつながっている。
社会のエネルギーを健全にガス抜きしている。
そして、集団の技能や団結力を、いざというときのために、しかも楽しみながら維持している。

現代は、狩猟は戦争、スポーツに置き換えられて、エネルギーを消費してきた。そして最近は身体を使わない「ゲーム機」へと進化している。
現在は毎日、テレビをつければ祭り気分を味わえる。ゲームで残忍な気持ちやスリルを消費できる。
そのエネルギーの消費の仕方は、時に健全ではない。人々は、やはり、人との交流を求めており、身体を使って消費しようとする。

旅行したときに、テレビと同じことを求め、もうすでに行く前から見たかのような気になる人々もいれば、その情報で気持ちを鼓舞して、現地をより快適に楽しむ方向に使う人もいる。現代の祭りでも、ビデオやDVDで互いに技や演出を高めあい、健全に消費している人々もいる。
まつりは、男性をより男性らしく、女性をより女性らしく演出する場であり、恋愛にも人間形成にもふさわしい場である。地域のアイディンティティを共有し、日頃はいろいろな文化に親しむ。現代にも、まつりは必要である。

2011年7月16日土曜日

わのくに日本「紀」の国の始まり

わのくに日本「紀」の国の始まり

和歌山県では、和歌山市だけ言葉が違い、周りの岩出市、紀ノ川市、有田郡の紀州弁と泉北、泉南がそっくりなのはなぜか、不思議であった。また、和歌山県の中部山岳地と、京都の言葉が似ているのも、不思議であった。
京都の人が和歌山に住み移ったと聞いていたが、実際は逆ではなかったのか。和歌山の人が、奈良、京都に住み移った証拠が、方言ではなかろうか。

和歌山県人は、他県や他国に移住することを厭わず、江戸時代、明治以降も、多くの和歌山県人が関西や関東、海外に移住している。古い和歌山県の民が、奈良で都を作り、京都にすみ移って、日本の国を興したのではなかろうか。
京都の上流階級の言葉は、和歌山の古い言葉で、京都の庶民の言葉が、摂津や近江の言葉と共通していたのではないか。
熊野詣は、見ず知らずの田舎に行くのではなく、貴族がふるさとの神社や寺に参りに、「里帰り」していたのではないか。

わの付く地名。和歌山市に、和歌川と和田川があり、その中洲に紀伊風土記の丘と古墳群がある。このあたりは、泉南の松尾寺辺りの風景とよく似ている。山裏、東側にある、和歌山電鉄貴志川線の伊太祁曽駅周辺は、日本の原風景、隠れ里のようなところであり、三方が山に囲まれた南向きの集落である。
また、紀伊風土記の丘の西側に、秋月という地名があり、そこに日前神社(国懸神社)があるが、高天原という、天照大神が岩戸にこもった野外集会所の近隣といわれ、知恵の神の計画により、生じた姫(鏡)を祭った神社であるという。
紀の国は日本紀の国であるのか。

天の神と国ごとの神がいて、最初の子ども達は、淡路島、四国であったことから、わのくには、初め、紀北で生じ、紀伊水道を隔てた淡路、四国を属国に従えたのか。その国で祭られていた神を子どもとし、また、実際にわのくにの帝の子ども達を四国や淡路に派遣して、治めさせたのか。
古い神社が紀伊半島にあり、古い寺めぐりが和歌山をスタートとして、西国や四国を一巡りしているのも、神社仏閣を開拓した順に巡っているのか。神輿は、神社に魂を入れるためにつかう、つまり、神を乗せた人力の車である。神社を増やすに従い、神輿を和歌山から奈良、大阪、京都、四国に運んでそれが各地の祭りの元となっているのか。

しかし、雨乞いなど、土着の信仰は、山手の少数部族が行っていたのであろう。火をくべて祈祷する。木や岩に神仏が宿っている、狐などの動物が人に化けて人間と会話する、こういった神話伝説は、わのくにではなく、土着の信仰が、鏡をご神体とする神社とともに広まって行ったのであろう。土着の信仰の中には、仮面をつけ、神の格好をして劇を行ったり、歌や音楽、踊りを伴うものもあった。それが、神社の祭りと融合して、全国に広まっていったのであろう。

最初にわのくにの人が織った布は、縞模様であったのであろう。紅白、黒白は誰でも織りやすく、染色の難しいカラフルなものは、神社や寺を飾ったことだろう。集落ごとに、違う縞柄を着て、集落ごとに違う服装をしていたことだろう。その当時の服装で、今でも祭りを行っているのであろう。
「ちょっと、中国や朝鮮半島に行ってくるわ」と、気軽に鯨を取るような船に乗って、新しい文化をとりいれてきたことだろう。新しい大量にとれる品種の米を手にしたとき、それまで口にしていた褐色の米やもち米は、祭りの時の食事に変わり、白いうるち米を税金にしてとりたてて、わのくには大きくなったのだろう。
最新の青銅器や鉄器を輸入し、近隣を制圧したが、なにか「すごさ」を表現するハクのつくものが欲しかった。そこで、中国製の印を中国でもらってきて、近隣の国に「水戸黄門の葵のご門」のように自慢したことだろう。こうして、なにかあれば印鑑をつく国が出来上がったのであろう。
港に現れる、外国人の服装は、すぐさま海岸の人々に取り入れられ、最新の流行を生み出したことだろう。わのくにの人は、移住を厭わず、新しい文化を積極的に取り入れる気質で日本全国を圧倒したのだろう。
日本語を漢字で表す方法を思いついたとき、まず、古くから伝わる神話や伝承を表記し、気持ちを携帯のメールのような短い文章でやりとりした。当時の筆記用具はおそらく高価で、電報のように短文でなければならなかった。
女子高生の崩し字やポケベル、絵文字のような遊び心感覚で、ひらがなは生まれた。文字が記録されて始めて、やまとは生まれた。多くの周辺の国は、やまとよりも高い文化を持っていたとしても、記録されずに消えていく。くちから口へ伝えられる民話は、子どものための作り話ではなく、かなり正確な昔の出来事の記録であったことだろう。

貴族の食べる分まで、農民が育てて収める。肝心の紀州は米を作る農地が余りに少なかった。柿は縄文以前からあるといわれている、かなり古い日本の果物であり、和歌山県が有名な産地である。桃山町の桃、南部の梅、有田の蜜柑も、日本の昔から親しまれている果物であり、醤油や味噌、魚を塩水でつけるだけの酢を使わない箱寿司も和歌山で生じている。かつおや煮干でだしをとり、醤油や味噌で味付けをする日本食のルーツは、間違いなく、和歌山の食卓にあったことであろう。
鳥取の梨、丹波の栗、大分・山口・福井の枇杷も、古くから日本列島にあり、すでに全国に普及していた。各地の縄文文化も、吸収していったことだろう。

わのくに「やまと」と「かわち」

「やまと」ブーム。戦艦大和映画、宇宙戦艦大和アニメ。
だんじりで有名な岸和田、河内弁。関東の人が思い浮かべる、映画の関西弁、やくざ言葉。信州に行くと、関西弁こわい、関西人やくざみたい。といわれて驚く。
しかし、泉北、泉南が河内国でないのはなぜか、
言葉が和歌山県の紀州弁とそっくりなのはなぜか、不思議であった。

信州、京都、和歌山(有田)、大阪(なにわ)、高石、泉大津、兵庫(尼崎)に住んだ20年。
ようやく、小学校で学んだ、聖徳太子の四天王寺から法隆寺に続く古道、寺、
中学、高校で学んだ日本史、世界史、生物史が、頭の中でつながろうとしている。

猿人、原人、そしてホモ・サピエンスへ人類の進化。
旧石器時代(洪積世)のドイツネアンデルタール人(旧人)、フランスクロマニョン人(新人)。野尻湖など東日本を中心に日本各地に人が住み、貝塚を築く。
新石器時代(沖積世)、縄文時代。塩尻や和田峠。東京の大森。黒曜石や讃岐石(サヌカイト)の交易で、すでに街道が栄えていたという。
そして、弥生時代。青銅器(ブロンズ)……銅と亜鉛、錫の合金と、鉄器が普及。
縄文時代より狩猟採取、農耕を行っていた部族を、新兵器により制圧して行った。

パプアニューギニアのような、少数部族の交易で栄えたところへ、九州を経て弥生文化が海岸沿いに押し寄せ、少数部族を山間や内陸の僻地へと、追い立てていったことだろう。
もともと、平野部で水田、漁業を行っていた海洋民族も、山間部においやられ、仕方がなく狩猟採集中心の粗食へと文化を変えていったことだろう。

わの付く地域。和泉、和歌山(若山)、和歌浦、大和、若狭?
自分のことを「わ」と呼ぶ人々。わが山?わが浦?わが泉?
紀ノ川を北上すると、右手の山側が東の大和、左手の平原が西の河内。
委の国?倭の国?邪馬台国?日本国のルーツは大阪、奈良、和歌山の国境であったのか?
600もの小さな古墳の群集する紀ノ川河口から、日本最大の古墳、仁徳天皇稜ある堺まで、小さな集落を飲み込んで、巨大化していったのか?

南海道の身長180cm近い体格のよい新日本人が、大陸式の戦術で、小柄な旧日本人と鉄器で戦えば、

津のつく港、いずみの大津(泉大津)、伊勢の津、近江の大津、摂津。
河内国の港が、和泉府中の港湾都市が泉大津であったのか、それはやまとから最も近い瀬戸内海の港であったのか。
やがて、堺、難波と河内の開拓にしたがって、港も北上したのか。
堺(さかい)は摂津と和泉の国境(くにざかい)にあったのか。
国際港から、大陸の新文化や新兵器が輸入された。「古代日本」のガラス、青銅や鉄器は、泉大津や堺で下ろされたのか。

鉄鉱石が溶かされ、銑鉄が鋼になっていく。最初のやまとの臨海工業地帯が、和泉であったのか。

中国の王宮の周りの特別行政区が畿(き)。
きのつく地名。
きの川、きの国、

田畑の開拓と共に、都が北上。
海沿いに港も北上。
海沿いの古道、海上ルートのサービスエリア、パーキングエリア。
食料や塩、湧き水を補給し、嵐が来れば避難する。
伊勢神宮の神宝、織物道具(高機)や琴などの外国文化の伝播、海のシルクロード。
後の、大陸、陸のシルクロードの品々も、海からやってきた。羽衣伝説の外国人は、中国?インド?ペルシャであったのか?
新しい図柄やデザインを手に入れるため、沐浴中に借りては、閲覧していたのか?
兵士や官僚ではない外国人女性の服装や裸は、かなり希少価値があったことだろう。

畿内と七道(西海道、南海道、東海道、山陽道、山陰道、北陸道、東山道)。北海道はまだなかった。
畿内(大和、河内、摂津、山城)の四畿と、河内国より分かれた和泉(いずみ)の五畿。
王宮の周りの特別行政区が畿内。五畿の周囲を入れると近畿。紀伊や伊勢、近江、伊賀、若狭、現在の関西の二府五県に近い。

有田(在田)は田のあるところである。河岸に遺跡が出土し、山城があり、都より旅人や落人も来る。平安時代には、乗り物を使えば、1週間で往復できる距離であったという。
ヨットであれば、風力だけで大阪湾から一日余りでたどり着く。

和歌山の地名のつけ方が、田んぼは、田、野原は野と、シンプルである。
江戸時代以前の古語も方言によく残っている。それは大阪泉州も同様である。
弥生時代は、身近な山は「山」、川は「川」と呼んでいたのかもしれない。山間の人はやまびとであったのか。川原の人はかわちのひとであったのか。

信州では、北海道の地名がアイヌ語が語源であるのと同様、地名のつけ方が関西と異なっていた。学生時代に学んだことだが、沢のつく人名や地名が多く、渓谷にちなんだ内陸文化の名残であるという。少なくとも、ヤマト言葉でない人々が、最近までいたはずである。
しかし、舟形の山車を引くなど、岸和田のだんじりのような祭りが残り、「わ」の弥生人たちがやはり、街道や関所に押し寄せたのだろう。そして、山を荒らすと「山賊」も出たのだ。
紀伊半島や四国にも、古い集落やヤマト文化とは異なる文化が残っている。仏教以前の、神道以前の宗教観が残っている。
近畿には、多くの「鬼」や「山賊」や「海賊」が、交易の船から通行料、場所代、警備代をいただきに、徴収に回っていたことだろう。

北海道から沖縄まで、一つの国に格好がついてから、さらに台湾や朝鮮半島、東南アジア、樺太まで国境線が一時期伸びた時代もあり、現在の「ヤマト」日本は古いが新しい国である。

地域娯楽のあり方 その2図書館遊園地

子ども達は、絵本の読み聞かせに向かう。紙芝居や、人形劇、きぐるみのショーを楽しむ。子ども達は、読み聞かせのお姉さんのポケットの中のお菓子を、探しに舞台に上がることもできる。
ショーの中には、アニメのヒロインの着ぐるみショーがあり、最後にきぐるみを取って挨拶すると、なぜか水着ショーになっている。水着のお姉さんの中のお菓子を、お父さん達は、手探りで探し出すこともできるかもしれない。キャンデーは紙に包まれず、谷や洞窟の中に隠されているかもしれない。
それをナメながら、さらに高校生からお父さんは、大人の絵本と紙芝居に向かう。くわず女房は、結婚しても一度もセックスをしようとしない女房が、男の留守中に、結っていた髪を振りほどいては、「毛」の中のもうひとつあいている「大きな口」でつぎつぎと男を食ってしまう恐ろしい話となっている。女房を不審に思い、外出したふりをして家の梁に登ってこっそり見ていた男は、鏡を見ていた女房に見つかり、「みたな~」と言われて、びっくりして手を滑らせて落ちたところをぱっくりと食われてしまうのである。
かちかち山のおばあさんは、おじいさんの留守中、家に招きいれた狸おやじにだまされ、SMプレイでしばられる。狸おやじは夢中のあまりおばあさんを突き殺してしまう。敵討ちのおじいさんは、狸おやじを水漏れのするコンクリート船に乗せて、海中に沈めてしまう。若い送りおおかみは赤頭巾とおばあさんをレイプしたところを猟師の父親に現行犯で撃ち殺される。迷子のヘンゼルはお菓子の匂いにつられて森の中の家には行ったところ、菓子を焼いて待っている熟女につかまるが、まだ食べるには子供であったため、ヘンゼルのみが軟禁され、大きくなるまで食べられるようになるまで飼育されてしまう。日本の民話の雪女や山姥も、山に迷い込んだ若者を、優しく手招きしては、夜中に正体を見せる。そのまま、刃物で殺されたり、雪の中、裸のまま凍死する若者もいる。子供には話せないような数々の残酷シーンも、割愛無しで語られる。
はらはらどきどきしながら楽しんだお父さん達は、「大人の写真集」「大人の雑誌室」「大人の遊具室」に向かう。
子ども達からおとうさんまで、有料のネットカフェでゲームや映像を楽しむこともできる。また、外には普通の遊園地で見られる回転遊具もあれば、射撃場もある。
一方、子ども達のおじいさんは、昔懐かしい記録映像の、クーラーの聞いた視聴室で昔見たポルノ映画の復刻版を、楽しんでいる。
さらに、ひいおじいさん達は、老人ホームからバスでやってきて、無声映画を活動弁士の熱演の下、ききいっている。ときどき、映画やカフェで、何時間もヌードにはまっている所を職員に連れ戻されている人もいるかもしれない。

地域娯楽のあり方 その1スポーツ


家族で野球やランニングをする家は、珍しくない。地域対抗の野球や柔道も、珍しくない。しかし、野球や柔道は、一般に練習場所がなく、日頃の練習量や試合経験の差が大きく、親睦には向かない。

地域のスポーツの新しいあり方として、地域の柔道場のように、年に数回、家族みんなでお互いの試合を応援し、一緒に練習できるような環境、年齢を超えた地域対抗のフットサル大会などは、できないものか。日頃からのつきあいが、災害時に有効であるというが、家の代表者の掃除や当番だけでは見えてこないのが、家族の顔である。地元の祭りのように、地区で親睦試合、地区対抗の試合が、異業種異年齢で行えないものだろうか。

小学生から社会人までサッカーブームが続き、3世代、おじいちゃんもおばあちゃんも、おとうさんもおかあさんも、みなサッカー好きの家も増えてきている。地域、学校、家庭の連携の大切な時代に、まずは心の敷居をほぐせるのではないか。フットサルならば、南北アメリカやアジア諸国、インド、ヨーロッパ系の在留外国人も気軽に参加できる。

野球や陸上競技が日本で盛んなのは、小さい頃から家族で親しめる環境があるからである。しかし、サッカーの場合、芝のグランドが少なく、野球のマウンドがあるなど、なかなか練習場所が無く、同年齢での練習が中心である。サッカーももちろん、大きなフィールドでは体格差や経験差がものをいう。怪我の危険があるため、異年齢の接触プレーを避けてきている。

しかし、レベルの底上げを考えると、小学生くらいから社会人と一緒にプレーする体験が貴重である。大人のプレーを生で見る、いっしょにチームで走る経験により、短期間で大きな目標を持ち成長できる。大人は、子供にパスを出す場合、子どもの足元に、とりやすいスピードのボールを丁寧に出さねばならない。いつものような、誰か取ってくれるだろうという、大きく適当に蹴るロングパスは通用しない。それはまた、大人にとってもいい練習となるはずである。
シュートを打つこととキーパーは小学生に限るなど、ルールを決め、社会人と小学生の混合試合および、中高生混合試合の11人ゲームはできないものか。

『浪花の映画の事始め』に向かう


2011年7月9日、大阪城近くの大阪歴史博物館で、80年前の大阪を記録した映像と映画の、2本立て鑑賞会があった。
歩く女性に着物姿が多く、髪の色と散髪が古いとはいえ、会社員や労働者の服装が現代とさほど変わらない風景に、親近感を覚えた。

『大阪百景』は、手回しで16コマで撮影したという。そのまま1秒間24コマで上映すると早回しのようになってしまうものを、できるだけゆっくりと上映していた。が、対象を遠景で撮ったり、状況描写の無い映画であるため、現代人にはやはり、展開の速すぎるめまぐるしい映像であった。逆に新鮮で、飽きさせないハイテンポの映像ともいえた。
タイのバンコクのように市バス以外に小さな民間バスが市内を走っていたり、ネオンサインで道頓堀が昼間のように明るかったり、キャバレーやカフェで、明るく健康的なショーが繰り広げられていたり、映像で見る戦前の1930年代(昭和5年~14年?)は、不景気といいながらにぎやかであった。
大阪駅のある梅田や御堂筋に堺筋、心斎橋や仮装行列。大阪は水の都であった。橋は船がくぐるよう太鼓になっており、船は帆船も外輪の汽船も走っており、ミシシッピー川か香港かといった風情であった。水都祭では、キャバレー毎に出す船に、着物姿の美女が踊って沿岸の観客を楽しませていた。

『僕らの弟』は、大阪市西淀川区、現在の此花区にあった四貫島小学校の実話を映画化したらしく、関係者も上映会に見えていた。京都の向日市(長岡京近く)の京都西山高校に眠っていた記録映像を復刻した。
小学校で子ども達は、今と同じくサッカーやバスケットをしていた。校庭で体育の時間に行われていたのは、野球ではなかった。また、体操服も帽子も今と変わらず、子供服も、男の子はシャツに短パン、女の子はワンピースで、そのまま現代を歩いていても違和感の無い服装であった。昭和恐慌直後の大阪は、バブル後の大阪と同じく、工場や商店で解雇され、職のない人があふれ、四国や名古屋に出稼ぎに行く風景があった。主人公の父親も、なれない肉体労働で身体を壊し、稼ぎに行きながら帰りの運賃も底をついて、子ども達のアルバイトのカンパで、ようやく大阪に戻る有様であった。小学校の男の子が、小3の妹や弟の世話をしながら、学校に通っていた。近所の奥さんに混じって、井戸端ならぬ水道端で洗濯をし、金を借りて炊事をしていた。今でも、家庭の事情で、兄弟の面倒を見ながら、アルバイトをしながら、勉強やクラブを続けている中高生がいる。彼らがこれを見たらどんな気持ちがするのだろう、彼らの担任は、この映画に出てくる担任のことを、どんな目で見るのだろうかと思った。
主人公の担任は、20代前半に見えたが、学校を遅刻してくる理由を知らない頃は、遅刻はいけないときつく注意していた。しかし、下宿先の駄菓子屋のおばさん(おばさんといっても、50歳から60歳、もっと上にも思えるおばあさんの風体)より、事情を聞くと、弟を連れて学校に出てくるようにいう。
担任が「あとで校長に頼んでおいてやる」といっていることから、弟を教室に入れることについて、子供に言う前に先に校長に相談していない。そして、小学校の校長も、担任から報告をきいてから「勝手なことをしたらあかん」とは言わないところが、さすがである。担任や校長に、自由度、現場で即決できる裁量があった。戦前は自由がないといいながら、案外融通が利いていたのか。それとも現在は、担任や校長の自由裁量にすると、子どもの勉強が成り立たないほど、学級崩壊学校崩壊で、無秩序になってしまうのか。
一緒に習字をさせたり体育の騎馬戦の馬にのせてやったり、寝ている弟におそらく、行水か身体を拭くばかりで何日も風呂に入っていない弟に、上着を着せながら子守をかわってやって、教室で生徒に自習させている。更にすごいなと思わせるのは、体を壊して帰ってきた父親のために、学校の用務員の仕事を、担任が探してきて紹介しているのである。父親が四国からもどってきたとき、マイカーでかけつけて、一家を家まで送り届けている。本当に困ったときに、手を差し伸べている。しかし、余計になおせっかいは焼かない。担任が「父親が帰るまで、金をだしてやる」といっても、子どもが「いや、自分でアルバイトで稼ぐ」といったとき、その子の自主性を尊重して、温かく見守っている。こうして、学校にこれず、勉強ができなかったはずの生徒が、同級生と共に学べる環境が、担任によってつくられているのである。
タイトルの僕らの弟というのは、クラスメートから見て主人公の弟はみんなの弟であったということ。当時の小学校で上映されるにあたって、子ども達に同級生の弟は皆の弟であるよと言うメッセージであろう。実際、子どもだけで生活し、下の弟が行方不明になっても、町を歩いている同級生があいつの弟だとすぐに気づいて連れ戻してやることができた。地域で、学校で、一家を見守っているが、下宿のおばさんでさえ、余計な干渉はしていない。この、おせっかいを焼きすぎず、困ったときにさりげなく手を差し伸べるというのは、バブル後、震災後の日本の在り方の参考になると思われる。
上映前に、この映画は社会派映画であると言われ、特別に過激な思想映画には思えなかったのであるが、確かに、世の中について、深く考えさせる社会派の映画であった。

個人的には、あちこちに求職してもしても、繰り返し「不採用」の手紙を受け取り、家でぶらぶらしている痩せた無職の父親の姿。最近まで働いていた西淀川区や此花区の工業地帯の風景、父と子ども3人が出かけた堺市の浜寺の海(現在で言う、和歌山の白浜まで泳ぎに行ってくるという感覚か?)が印象深かった。
また、昔の映画は、オーケストラが最前列で生演奏しながら、声優さんである弁士がアテレコしながら、全て生で手作りで聞けたという内容の、活動弁士のコメントがあり、現代のCGふんだんが贅沢なのか、多くの声優が係わるアニメが贅沢なのか、それとも昭和の始めの方が文化的に贅沢であったのか、考えさせられた。戦前のカフェやキャバレーも、高い文化水準をもたらしていた。娯楽でありながら、ただの娯楽ではなかった。そこで、鑑賞し会話し遊ぶ会社員は、翌日の仕事のために何を得て帰ったのかと思う。


歴史博物館にはまた、常設の資料館があり、図書の閲覧ができた。大阪の祭りについて、絵や写真の記録を見た。戦前、戦中に、日本文化を見直すルネッサンスがあり、そのときに多くの祭りが復刻され、写真に残されている。まだ、昭和の初めならば、江戸時代の祭りを見知っている古老が存命で、復活再現できたのであろう。多くの祭りが、大阪府のドーナッツ化、下町の空洞化、バブル以降に郊外に新興住宅街ができると共に消えている。
狭い大阪府とはいえ、大きく3つの地域に分かれている。
北部の摂津は神戸と文化を共にし、縄を引いたり、たいまつを燃やして走ったり、祭りの種類が違う。
農家が牛を着飾らせて集まる、牛の藪入りや、平野や住吉大社に伝わる「田植えを模した神事」など、大阪市内に多くの季節ごとの祭りがかつてはあったようだ。大阪市内や東部につたわるだんじりは、やはり原型は予想通り、船の形であり、神様を神社から川で運んで入魂したことを、陸で模している。
河内や泉州のだんじりは、京都の稲荷から岸和田城に神様を運び入れたことを機に1700年代に始まった祭りの形態であるという。むしろ、堺の太鼓台(蒲団太鼓)の祭りの方が、古くからあるようだ。

まだ、関西には多くの地域の祭りが現存し、地区や集落ごとに祭囃子が異なる。これをローテクフィルムとハイテク技術の音と映像で記録保存し、後世に再現できるようにすべきであろう。やがて、日本各地の発掘が進めば、その記録により、縄文弥生時代、古代の音楽や祭事が再現できる可能性が、まだ日本に残っている。
今は再現が不可能でも、将来、可能になるかもしれない。そのときは、日本人のための日本史研究ではなく、多くの外国人が係わる世界史の一つとなっているはずである。
そして、その技術や技法を、人材と共にアジアに輸出すべきである。日本のアニメ文化を愛する海外の外国人に、日本の新しい文化貢献としてすべきである。そして、各国主導かつアジア共通の「アジア史編纂」に向け、日本がイニシアティブをとるべきである。