和歌山県では、和歌山市だけ言葉が違い、周りの岩出市、紀ノ川市、有田郡の紀州弁と泉北、泉南がそっくりなのはなぜか、不思議であった。また、和歌山県の中部山岳地と、京都の言葉が似ているのも、不思議であった。
京都の人が和歌山に住み移ったと聞いていたが、実際は逆ではなかったのか。和歌山の人が、奈良、京都に住み移った証拠が、方言ではなかろうか。
和歌山県人は、他県や他国に移住することを厭わず、江戸時代、明治以降も、多くの和歌山県人が関西や関東、海外に移住している。古い和歌山県の民が、奈良で都を作り、京都にすみ移って、日本の国を興したのではなかろうか。
京都の上流階級の言葉は、和歌山の古い言葉で、京都の庶民の言葉が、摂津や近江の言葉と共通していたのではないか。
熊野詣は、見ず知らずの田舎に行くのではなく、貴族がふるさとの神社や寺に参りに、「里帰り」していたのではないか。
わの付く地名。和歌山市に、和歌川と和田川があり、その中洲に紀伊風土記の丘と古墳群がある。このあたりは、泉南の松尾寺辺りの風景とよく似ている。山裏、東側にある、和歌山電鉄貴志川線の伊太祁曽駅周辺は、日本の原風景、隠れ里のようなところであり、三方が山に囲まれた南向きの集落である。
また、紀伊風土記の丘の西側に、秋月という地名があり、そこに日前神社(国懸神社)があるが、高天原という、天照大神が岩戸にこもった野外集会所の近隣といわれ、知恵の神の計画により、生じた姫(鏡)を祭った神社であるという。
紀の国は日本紀の国であるのか。
天の神と国ごとの神がいて、最初の子ども達は、淡路島、四国であったことから、わのくには、初め、紀北で生じ、紀伊水道を隔てた淡路、四国を属国に従えたのか。その国で祭られていた神を子どもとし、また、実際にわのくにの帝の子ども達を四国や淡路に派遣して、治めさせたのか。
古い神社が紀伊半島にあり、古い寺めぐりが和歌山をスタートとして、西国や四国を一巡りしているのも、神社仏閣を開拓した順に巡っているのか。神輿は、神社に魂を入れるためにつかう、つまり、神を乗せた人力の車である。神社を増やすに従い、神輿を和歌山から奈良、大阪、京都、四国に運んでそれが各地の祭りの元となっているのか。
しかし、雨乞いなど、土着の信仰は、山手の少数部族が行っていたのであろう。火をくべて祈祷する。木や岩に神仏が宿っている、狐などの動物が人に化けて人間と会話する、こういった神話伝説は、わのくにではなく、土着の信仰が、鏡をご神体とする神社とともに広まって行ったのであろう。土着の信仰の中には、仮面をつけ、神の格好をして劇を行ったり、歌や音楽、踊りを伴うものもあった。それが、神社の祭りと融合して、全国に広まっていったのであろう。
最初にわのくにの人が織った布は、縞模様であったのであろう。紅白、黒白は誰でも織りやすく、染色の難しいカラフルなものは、神社や寺を飾ったことだろう。集落ごとに、違う縞柄を着て、集落ごとに違う服装をしていたことだろう。その当時の服装で、今でも祭りを行っているのであろう。
「ちょっと、中国や朝鮮半島に行ってくるわ」と、気軽に鯨を取るような船に乗って、新しい文化をとりいれてきたことだろう。新しい大量にとれる品種の米を手にしたとき、それまで口にしていた褐色の米やもち米は、祭りの時の食事に変わり、白いうるち米を税金にしてとりたてて、わのくには大きくなったのだろう。
最新の青銅器や鉄器を輸入し、近隣を制圧したが、なにか「すごさ」を表現するハクのつくものが欲しかった。そこで、中国製の印を中国でもらってきて、近隣の国に「水戸黄門の葵のご門」のように自慢したことだろう。こうして、なにかあれば印鑑をつく国が出来上がったのであろう。
港に現れる、外国人の服装は、すぐさま海岸の人々に取り入れられ、最新の流行を生み出したことだろう。わのくにの人は、移住を厭わず、新しい文化を積極的に取り入れる気質で日本全国を圧倒したのだろう。
日本語を漢字で表す方法を思いついたとき、まず、古くから伝わる神話や伝承を表記し、気持ちを携帯のメールのような短い文章でやりとりした。当時の筆記用具はおそらく高価で、電報のように短文でなければならなかった。
女子高生の崩し字やポケベル、絵文字のような遊び心感覚で、ひらがなは生まれた。文字が記録されて始めて、やまとは生まれた。多くの周辺の国は、やまとよりも高い文化を持っていたとしても、記録されずに消えていく。くちから口へ伝えられる民話は、子どものための作り話ではなく、かなり正確な昔の出来事の記録であったことだろう。
貴族の食べる分まで、農民が育てて収める。肝心の紀州は米を作る農地が余りに少なかった。柿は縄文以前からあるといわれている、かなり古い日本の果物であり、和歌山県が有名な産地である。桃山町の桃、南部の梅、有田の蜜柑も、日本の昔から親しまれている果物であり、醤油や味噌、魚を塩水でつけるだけの酢を使わない箱寿司も和歌山で生じている。かつおや煮干でだしをとり、醤油や味噌で味付けをする日本食のルーツは、間違いなく、和歌山の食卓にあったことであろう。
鳥取の梨、丹波の栗、大分・山口・福井の枇杷も、古くから日本列島にあり、すでに全国に普及していた。各地の縄文文化も、吸収していったことだろう。
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