2011年7月16日土曜日

『浪花の映画の事始め』に向かう


2011年7月9日、大阪城近くの大阪歴史博物館で、80年前の大阪を記録した映像と映画の、2本立て鑑賞会があった。
歩く女性に着物姿が多く、髪の色と散髪が古いとはいえ、会社員や労働者の服装が現代とさほど変わらない風景に、親近感を覚えた。

『大阪百景』は、手回しで16コマで撮影したという。そのまま1秒間24コマで上映すると早回しのようになってしまうものを、できるだけゆっくりと上映していた。が、対象を遠景で撮ったり、状況描写の無い映画であるため、現代人にはやはり、展開の速すぎるめまぐるしい映像であった。逆に新鮮で、飽きさせないハイテンポの映像ともいえた。
タイのバンコクのように市バス以外に小さな民間バスが市内を走っていたり、ネオンサインで道頓堀が昼間のように明るかったり、キャバレーやカフェで、明るく健康的なショーが繰り広げられていたり、映像で見る戦前の1930年代(昭和5年~14年?)は、不景気といいながらにぎやかであった。
大阪駅のある梅田や御堂筋に堺筋、心斎橋や仮装行列。大阪は水の都であった。橋は船がくぐるよう太鼓になっており、船は帆船も外輪の汽船も走っており、ミシシッピー川か香港かといった風情であった。水都祭では、キャバレー毎に出す船に、着物姿の美女が踊って沿岸の観客を楽しませていた。

『僕らの弟』は、大阪市西淀川区、現在の此花区にあった四貫島小学校の実話を映画化したらしく、関係者も上映会に見えていた。京都の向日市(長岡京近く)の京都西山高校に眠っていた記録映像を復刻した。
小学校で子ども達は、今と同じくサッカーやバスケットをしていた。校庭で体育の時間に行われていたのは、野球ではなかった。また、体操服も帽子も今と変わらず、子供服も、男の子はシャツに短パン、女の子はワンピースで、そのまま現代を歩いていても違和感の無い服装であった。昭和恐慌直後の大阪は、バブル後の大阪と同じく、工場や商店で解雇され、職のない人があふれ、四国や名古屋に出稼ぎに行く風景があった。主人公の父親も、なれない肉体労働で身体を壊し、稼ぎに行きながら帰りの運賃も底をついて、子ども達のアルバイトのカンパで、ようやく大阪に戻る有様であった。小学校の男の子が、小3の妹や弟の世話をしながら、学校に通っていた。近所の奥さんに混じって、井戸端ならぬ水道端で洗濯をし、金を借りて炊事をしていた。今でも、家庭の事情で、兄弟の面倒を見ながら、アルバイトをしながら、勉強やクラブを続けている中高生がいる。彼らがこれを見たらどんな気持ちがするのだろう、彼らの担任は、この映画に出てくる担任のことを、どんな目で見るのだろうかと思った。
主人公の担任は、20代前半に見えたが、学校を遅刻してくる理由を知らない頃は、遅刻はいけないときつく注意していた。しかし、下宿先の駄菓子屋のおばさん(おばさんといっても、50歳から60歳、もっと上にも思えるおばあさんの風体)より、事情を聞くと、弟を連れて学校に出てくるようにいう。
担任が「あとで校長に頼んでおいてやる」といっていることから、弟を教室に入れることについて、子供に言う前に先に校長に相談していない。そして、小学校の校長も、担任から報告をきいてから「勝手なことをしたらあかん」とは言わないところが、さすがである。担任や校長に、自由度、現場で即決できる裁量があった。戦前は自由がないといいながら、案外融通が利いていたのか。それとも現在は、担任や校長の自由裁量にすると、子どもの勉強が成り立たないほど、学級崩壊学校崩壊で、無秩序になってしまうのか。
一緒に習字をさせたり体育の騎馬戦の馬にのせてやったり、寝ている弟におそらく、行水か身体を拭くばかりで何日も風呂に入っていない弟に、上着を着せながら子守をかわってやって、教室で生徒に自習させている。更にすごいなと思わせるのは、体を壊して帰ってきた父親のために、学校の用務員の仕事を、担任が探してきて紹介しているのである。父親が四国からもどってきたとき、マイカーでかけつけて、一家を家まで送り届けている。本当に困ったときに、手を差し伸べている。しかし、余計になおせっかいは焼かない。担任が「父親が帰るまで、金をだしてやる」といっても、子どもが「いや、自分でアルバイトで稼ぐ」といったとき、その子の自主性を尊重して、温かく見守っている。こうして、学校にこれず、勉強ができなかったはずの生徒が、同級生と共に学べる環境が、担任によってつくられているのである。
タイトルの僕らの弟というのは、クラスメートから見て主人公の弟はみんなの弟であったということ。当時の小学校で上映されるにあたって、子ども達に同級生の弟は皆の弟であるよと言うメッセージであろう。実際、子どもだけで生活し、下の弟が行方不明になっても、町を歩いている同級生があいつの弟だとすぐに気づいて連れ戻してやることができた。地域で、学校で、一家を見守っているが、下宿のおばさんでさえ、余計な干渉はしていない。この、おせっかいを焼きすぎず、困ったときにさりげなく手を差し伸べるというのは、バブル後、震災後の日本の在り方の参考になると思われる。
上映前に、この映画は社会派映画であると言われ、特別に過激な思想映画には思えなかったのであるが、確かに、世の中について、深く考えさせる社会派の映画であった。

個人的には、あちこちに求職してもしても、繰り返し「不採用」の手紙を受け取り、家でぶらぶらしている痩せた無職の父親の姿。最近まで働いていた西淀川区や此花区の工業地帯の風景、父と子ども3人が出かけた堺市の浜寺の海(現在で言う、和歌山の白浜まで泳ぎに行ってくるという感覚か?)が印象深かった。
また、昔の映画は、オーケストラが最前列で生演奏しながら、声優さんである弁士がアテレコしながら、全て生で手作りで聞けたという内容の、活動弁士のコメントがあり、現代のCGふんだんが贅沢なのか、多くの声優が係わるアニメが贅沢なのか、それとも昭和の始めの方が文化的に贅沢であったのか、考えさせられた。戦前のカフェやキャバレーも、高い文化水準をもたらしていた。娯楽でありながら、ただの娯楽ではなかった。そこで、鑑賞し会話し遊ぶ会社員は、翌日の仕事のために何を得て帰ったのかと思う。


歴史博物館にはまた、常設の資料館があり、図書の閲覧ができた。大阪の祭りについて、絵や写真の記録を見た。戦前、戦中に、日本文化を見直すルネッサンスがあり、そのときに多くの祭りが復刻され、写真に残されている。まだ、昭和の初めならば、江戸時代の祭りを見知っている古老が存命で、復活再現できたのであろう。多くの祭りが、大阪府のドーナッツ化、下町の空洞化、バブル以降に郊外に新興住宅街ができると共に消えている。
狭い大阪府とはいえ、大きく3つの地域に分かれている。
北部の摂津は神戸と文化を共にし、縄を引いたり、たいまつを燃やして走ったり、祭りの種類が違う。
農家が牛を着飾らせて集まる、牛の藪入りや、平野や住吉大社に伝わる「田植えを模した神事」など、大阪市内に多くの季節ごとの祭りがかつてはあったようだ。大阪市内や東部につたわるだんじりは、やはり原型は予想通り、船の形であり、神様を神社から川で運んで入魂したことを、陸で模している。
河内や泉州のだんじりは、京都の稲荷から岸和田城に神様を運び入れたことを機に1700年代に始まった祭りの形態であるという。むしろ、堺の太鼓台(蒲団太鼓)の祭りの方が、古くからあるようだ。

まだ、関西には多くの地域の祭りが現存し、地区や集落ごとに祭囃子が異なる。これをローテクフィルムとハイテク技術の音と映像で記録保存し、後世に再現できるようにすべきであろう。やがて、日本各地の発掘が進めば、その記録により、縄文弥生時代、古代の音楽や祭事が再現できる可能性が、まだ日本に残っている。
今は再現が不可能でも、将来、可能になるかもしれない。そのときは、日本人のための日本史研究ではなく、多くの外国人が係わる世界史の一つとなっているはずである。
そして、その技術や技法を、人材と共にアジアに輸出すべきである。日本のアニメ文化を愛する海外の外国人に、日本の新しい文化貢献としてすべきである。そして、各国主導かつアジア共通の「アジア史編纂」に向け、日本がイニシアティブをとるべきである。

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