2011年7月27日水曜日

わのくに日本「まつり」の始まり

だし、山車、山鉾。船に槍やなぎなたを積んで街頭を練り歩くというのは、現在で言う軍事パレードであったのか。
だし舞い。だんじりの舞?しし舞い?
パレードが主で、上部の飾り物は、当時の流行のものなら何でもよかったのだろうか。
船や太鼓、いろいろなものを仮装しながら担いで歩くのが、純粋に楽しかったのだろうか。

めずらしい、ライオンや龍を模して歩いたり、中国や世界各地で行われていた出し物を、
日本でもだしたのが、「だし」なのか。
絵に龍やライオンや象を描いても、なかなかその大きさや迫力が伝わらなかったとき、彼らは、ライオンや龍の面をつくって、実際に動きを演じて見せたのではないか。
現代で言う、テレビのような娯楽教養ものではないか。

旅行の大義名分に、寺や神社に参ってくるといって、寄付を集めて出て行ったのか。そして、他国のおもしろい風俗を持ち帰っては、祭りで演じて見せたのか。

難しい漢文の書物を、わかりやすく庶民に語って聞かせる人がいて、それが演劇や映画、現在のテレビなどへつながっている。
社会のエネルギーを健全にガス抜きしている。
そして、集団の技能や団結力を、いざというときのために、しかも楽しみながら維持している。

現代は、狩猟は戦争、スポーツに置き換えられて、エネルギーを消費してきた。そして最近は身体を使わない「ゲーム機」へと進化している。
現在は毎日、テレビをつければ祭り気分を味わえる。ゲームで残忍な気持ちやスリルを消費できる。
そのエネルギーの消費の仕方は、時に健全ではない。人々は、やはり、人との交流を求めており、身体を使って消費しようとする。

旅行したときに、テレビと同じことを求め、もうすでに行く前から見たかのような気になる人々もいれば、その情報で気持ちを鼓舞して、現地をより快適に楽しむ方向に使う人もいる。現代の祭りでも、ビデオやDVDで互いに技や演出を高めあい、健全に消費している人々もいる。
まつりは、男性をより男性らしく、女性をより女性らしく演出する場であり、恋愛にも人間形成にもふさわしい場である。地域のアイディンティティを共有し、日頃はいろいろな文化に親しむ。現代にも、まつりは必要である。

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