2011年9月26日月曜日

条里制、食文化などの途中経過

その後、古地図や縄文、弥生時代、奈良時代について、いくつか書籍をあたってみた。

奈良時代以降の条里制の遺跡は、ほぼ今の北の方角に直行する碁盤の目がみられる。

兵庫県の須磨や宝塚市などの一部、大阪府の泉北、泉南、和歌山県(和歌山市の吹上、鷹匠町、堀止、海南秋月、御坊など)では、やや北北西にかたむた碁盤の目、さらに北西に傾いた碁盤の目が見られる。

まだ、きちんと調べたわけではないが、昔の磁石の北、あるいは星座の北が今よりも北北西、または北西であれば、傾いたところほど古い町である可能性が考えられる。

大阪府の大鳳の碁盤の目では、水路に囲まれた路地の町並みが現存。
さらに南の高石、泉大津市の碁盤の目は、南海電車よりも内陸に碁盤の目がずれた地点があり、地震か浸水でずれたとすれば、防災の面からも歴史を振り返るのが望ましいであろう。


縄文時代に、栗、大豆やそば、あわ、などの雑穀を食べていた文化、その後、南方のタイ、インドに通じる小乗仏教の文化、さらに出雲大社から信州、紀伊半島にひろがる、稲作、稲荷、神社の文化が入り、三蔵法師が唐からインドに行って帰ってきた翌年に奈良に大乗仏教が根付いたと思われる。

西洋でローマが街道を整備すれば、東洋の中国で、西洋で騎士が活躍すれば東洋の日本でも武士が活躍する時代があり、同じころにオペラや歌舞伎が栄え、東西は以外に同時に同じ文化を共有している。西洋でペストがはやれば、京の町ではやり、鎌倉に幕府がうつるなどしている。

古代ギリシャの哲学、医学、戦術は、古代ローマだけではなく、中国にも伝わり、日本には忍術として現在にも生き残っている。棒を使って堀を飛び渡り、ムササビの術で城から滑空して飛びわたる様子は、イカロスの炭素繊維の翼の様だ。
後に人間業ではないかのようにうわさされるのは、西洋の魔術に通じる。

九州もさることながら、出雲大社以降に信州や紀伊半島が栄えた理由は、温泉がわき、木材が豊富で、調理や製鉄などで普通の平野よりも豊かな暮らしが行えたことによると思われる。

そして、豊かな東北や信州が昭和恐慌以降、離農が進んだ理由は、明治の産業革命、綿花の自由化、街道の衰退によると思われる。

以上、途中経過報告。

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